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「信じておるぞ、十斗・・・・・・」
 そう言い残した彼女は、氷に閉ざされ、時を止めた。

***


「ここの」
 その部屋の中央に据えられているのは、人の背丈を軽く越えるだろう大きな物体。白色と銀色が相い混ぜになったような半透明のそれは、こごった氷の塊に見えた。
 ただそれが普通ではないことは、その氷の中に、巫女装束をまとった少女の姿があることからも一目瞭然だった。
 その氷、刻氷という、その中に閉じ込められた少女に呼びかけたのは、一人の青年。肩にかかるくらいの黒髪が、彼の容貌をより精悍そうに見せていた。
 彼の名前は瀬具十斗。かつて、この世界が凶魔という存在に脅かされたとき、現世魔王と名乗る最悪の脅威から世界を守った「幽将」の一員であったことを知る者は世間では少ない。けれど一部の政府上層部、対凶魔活動を行う倒魔士たちの間で、彼の名はよく知られていた。
 倒魔士の中でも特に倒魔力の強い人物であり、光をもって魔を払う『鳴輝閃術』の使い手、瀬具十斗として。
 いま、青年の視線は真っ直ぐに氷の中へと向けられていた。
 刻氷の中に閉じ込められている少女、貴布ここのの時が停まってから二十年、十斗はこの風印高校の地下で眠る彼女を護るためだけに生きてきた。
 現世魔王を封じた幽将のうちの一人であるここのが、風印高校の地下に眠っていることを嗅ぎつけた凶魔たちが、ここのを狙うことはわかっていた。だから、あれからずっと彼女のそばにいた。いつ目覚めるともわからぬ、彼女のそばに。
 暗い闇夜の中、うっすらと光を放つ氷柱に閉ざされたその姿を見ては、十斗の胸に過ぎる想いがあった。
 二十年前のあのとき、十一人の幽将が揃って現世魔王と対峙した。ここのの命こそ犠牲にならなかったものの、霊獣・麒麟を呼び出した代償は彼女自身に降りかかった。
 己の時間を引き替えに麒麟を召還したのだ、と寂しそうに微笑んだここのの顔が、脳裏に焼き付いていた。刻氷の中にある当時と変わらぬ少女の姿を見るたびに、もっと違う方法を取ることができたのではないかと、それこそ十斗自身にもっと力があれば、と思ってしまう。もちろん、傲慢な考えだとわかっている。当時、それが最良の判断であったことも。
 あれから二十年、他の幽将たちはそれぞれの人生を新たに歩み始めた。愛する者とともに生きることを彼らは選んだ。それは、十斗にとっても同じことだった。
 四百年もの昔、今とは異なる肉体で生きていた頃から、十斗の魂は彼女の魂を求めてやまなかった。
 貴布ここの、その少女の存在が自身に不可欠であると気づいたときには、手遅れだった。だから、こうして寄り添い生きることが、十斗の選んだ道だった。
 ここのが目覚めぬとしても、生ある限り、希望を捨てぬと。
 同じ想いをしているであろう人物が、もう一人いることを十斗は知っていた。
 現世魔王の魂を我が身へと迎え、そしてその肉体ごと十斗に斬らせた男。死にかけてなお、新たに与えられた命で生き長らえた男。あれから姿を消し、消息こそ不明であったが、彼もこの二十年、ひたすらにここのを想い続けているだろうことは想像に難くなかった。それはまるで、同志であるかのような複雑な想いを十斗に感じさせた。
「ここの」
 再び、氷の中の少女に声をかける。ふと、その表面に艶やかな水の膜ができていることに気づく。今まで溶けることすらなく固く凍り付いていた刻氷が、溶け始めていた。
 慌てて、室内にある非常用の電話を手に取る。すぐにコール音のし始めたそれは、地上とホットラインで繋がっているものだ。
 数コールの後に、やや緊張した声音が受話器の向こうに聞こえた。それも当然、ここのが封じられてから二十年、この電話が使われることは一度たりともなかったのだから。
「壬吾か、俺だ。すまないが、鏡視郎に連絡を取ってくれ。・・・・・・刻氷が、溶け始めた」
 それからしばらくして、地下に一人の男がやってきた。十斗がホットラインで話した相手、風祭壬吾である。風印高校の教師をしている彼が連絡役に適しているのは言うまでもない。
 柔らかくウェーブのかかった、染めたものではない金髪は、小綺麗にセットされている。濃い目鼻立ちに加え、身につけた派手なカラーワイシャツに水玉柄のネクタイを締めた姿は、黙っていれば外国人にも見えなくはない。
「双葉にも連絡しといたわ。せやけど、ほんまに溶けてるんか?」
 壬吾の言葉通り、一見すると刻氷の様子は以前と変わらないように見える。しかし、その表面は明らかに濡れて、氷が溶けていることをあらわしている。
「どうやら、溶けたそばから水は失われているらしい」
「ほんまや。水がのうなっとる」
 刻氷の置かれた、正確にはわずかに浮いている床に、水気がないことを十斗が指摘すれば、壬吾は驚いたように声を上げた。
「仙界のものだ、不思議はない。だが、今までこんなことなかっただろう」
 十斗は真面目な顔で氷に手を伸ばした。
 氷が溶ける、すなわち次に麒麟が現れる条件が整うということ。聖人が現れ王道を行う時、霊獣麒麟は現れるという。四百年前、織田信長が行うはずだった王道は、現世魔王の出現により果たされなかった。
「兆し、と見ていいんだろうか」
 呟くように洩れた十斗の問いに壬吾が答えられるわけもない。しばし沈黙が流れる。
「・・・・・・それにしたってなぁ、二十年や。ここのちゃん、どないな顔するんやろか。わいら、すっかり歳くってしもうたもんな」
 壬吾は、十斗の心情を知っているからこそあえて発言した。ここのは二十年前と変わらぬ十六歳。奇しくも、壬吾と双葉の娘が同じ年頃になった。
「変わらないさ、ここのは」
「ほう、ごっつ自信があるようやな」
「あいつはあいつで、俺は俺だ。それだけで十分だ」
 穏やかな表情を浮かべる十斗に、壬吾は余計な心配をしたことを悟った。
 壬吾が言葉を続けようとしたとき、地下に通じる階段を勢いよく降りてくる足音が響いた。
「刻氷が溶け始めたですって!?」
 慌てた様子で駆け込んできたのは、眼鏡をかけた妙齢の女性。
 豊かな黒髪をたたえたその姿は、かつて十斗たちの高校で保健師をしていた頃から二十年という時を経ても、変わらぬ華やかさがあった。結婚して加賀味たまきと名を変えた彼女は、ここのの唯一の親族だった。
 心配する気持ちは人一倍あったにしろ、随分とした慌てぶりでやってきたたまきに対し、落ち着いた様子で入ってきた鏡視郎はやんわりと妻を宥めた。
「まだ、完全に溶けたわけじゃない。十斗君、どれくらい変化があった?」
「刻氷の形が変わってるのがわかるほど。一晩でこれだ。普通の氷に比べると溶ける早さが尋常じゃない」
 十斗の話を聞きながら、鏡視郎は被っていた帽子を手に取り、刻氷と床の様子を観察した。
「溶ける時間が普通の氷と同じとは限らない、というわけか」
 十斗は無言で頷き、鏡視郎も何かを考えるように黙り込んでしまった。
「ここのが、ようやく、戻ってくるのね」
 そんな二人の様子に、たまきは感極まったように呟き、鏡視郎のそばへ身体を寄せようとした、ちょうどそのときだった。
 カンカンカンカンカン!
 けたたましい足音が地下室いっぱいに響き渡り、やがて十斗たちのいる部屋に通じる厚い金属製のドアを勢いよく開けて現れたのは、少女と言ってもさしつかえないような外見の、小柄な女性だった。
「ここのさんが、目覚めたって!?」
 たまき以上に慌てた様子で駆け込んできた、自分の女房の姿に壬吾は頭を抱えた。
「気が早いわッ。刻氷が溶け始めただけやて言うたやろ!」
「えっ、そうなの?私てっきり・・・・・・!」
 壬吾と結婚して一児の母になったといっても、双葉に変わりなく。
「相変わらずだな、チンチクリン」
「ち、チンチクリンじゃないもん!こんなときに、もう、十斗くん〜」
 十斗の言葉にも相変わらずの応酬を繰り返すあたり、本当に変わりがない。進んで彼らと顔を合わせることをしない十斗にとって、かつての旧友との再会は懐かしくもあり、同時に心が痛みもした。不意に、刻氷に映り込んだ自身の姿が見えて、反射的に吐きそうになった嘆息を慌てて噛み殺した。
 急に集まってきたかつての仲間達だったが、今日明日に溶けるのか、それともまだ何年もかかるのかわからぬ刻氷の前に為すすべもなく。結局、それを見届けることを十斗に委ね、今日の所は解散することになった。
「ここのが目を覚ましたら、教えてね」
 帰り際、淋しそうに微笑んだたまきの表情が、刻氷に閉ざされる前のここののそれに似て、十斗は力強く頷き返した。

 また静寂が戻ってきた部屋の中にひとり、刻氷の中のここのとふたりきりになる。
 昨晩、十斗がここに戻ってきた時には刻氷の様子に変化はなかった。そう、今まで二十年、こんなことは一度もなかったのだ。
 薄暗い電灯の下、今も溶け続けているはずの刻氷の前に立つ。
「ここの」
 何度その名を呼んだだろうか。
 こごった氷中の面に合わせるようにわずかに腰をかがめ、氷であるならば冷たいはずの、しかしけしてひやりともしない刻氷に額をつけて囁く。刻氷の中に眠るその双眸がまもなく開かれる。それを考えるだけで、十斗の心は高揚した。
 いらえがないとわかっていても、十斗はそう呼びかけるのをやめることができなかった。

 最初の兆しが見えてから、幾晩越えただろうか。その時はとうとう訪れた。
 最後までその少女を包んでいた薄い氷の破片が散らばって、消失した。溶けた氷の中から芳香がほのかに香る。いままではぼんやりとしていた、巫女装束の白と緋のコントラストがはっきりと現実めいたものになり、氷の中でそよぎもしなかったぬばたまの黒髪がゆっくり波打ちながら広がり、たおやかな肢体が柔らかく崩れていく。
 その身体が固く冷たいリノリウムの床に崩れ落ちてしまう前に、十斗は彼女を抱きとめた。ずっと触れることすら叶わなかった少女が、いまようやくこの腕の中にある。おそるおそる、柔らかい身体を抱き締めると、懐かしい香りを感じた。
「おかえり、ここの」
 小さく呟いたその声は、けれどまだ少女の意識には届かない。変わらず目蓋を閉じたまま、どうやら眠っているようだった。
 彼女の時を停めていた刻氷はもうない。つまり、目覚めの時が来たと言うこと。
 ここのを胸に抱いたまま、床に座り込んだ十斗は目頭が熱くなるのを感じた。
 ふと、あたりを包む清浄な気の流れを感じて視線を上げれば、今まで刻氷があった場所に光があった。部屋中に広がる猛烈な光輝に、麒麟が召還されたことを知る。生き物のように動く光は、十斗たちの方へ数歩歩み寄ったかと思うと、まるで見えない力に引き寄せられるかのように消えた。
 光が消えた室内は、再び暗くなった。
 けれど、十斗の腕の中の少女は、ここのは確かにいた。

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(2011/04/20 公開)
(2011/04/24 追加)