after story


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 遅い時間ではあったが、鏡視郎に連絡を入れてから、十斗は夜の明けぬうちに風印高校をあとにした。
 鏡視郎とたまきの元へ行くことも考えたが、子供のいる家庭では何かと迷惑だろうと伝え、十斗は自宅へ連れ帰る選択をした。いずれにしろこの二十年の間、ほとんどここののそばにつきっきりだったため、生活の拠点とは言い難いが、高校の地下室よりはましなはずだ。
 十斗の父・源斗は警察を退官し、今は鏡視郎とともに倒魔士として事務所を構えている。数年前から職場にほど近い地区に住居を構え生活の拠点を移したため、現在、瀬具の家には十斗一人しか住んでいない。その十斗ですら日に数時間いるかいないかの生活を送っていた。
 まだ意識を取り戻さないここのを抱いて、自室へ入る。ベッドへ横たえて、着物の胸元を少しだけ寛げてやると、細い鎖骨と白い柔肌がのぞいて一瞬どきりとする。ここのの他には自分一人しかいないにも関わらず、ベッドサイドに座り込んで、その寝顔を見つめる姿勢を保つのに苦心した。
 朝日が上り、あたりが光を帯び始めた頃、その時は来た。
 長い睫毛がふるりと震えたかと思うと、その瞳がゆっくりと開かれる。あたりを認識するかのように二、三度瞬きを繰り返すと、十斗の姿を認識したのだろう、じっと見つめ合う。
 薄紅色の唇が紡いだ言葉は、この二十年どんなに望んでも聞くことができなかったものだ。
「じゅっ、と・・・・・・?」
「あぁ、ここの。俺だ」
 十斗はゆっくりと微笑み、ベッドへ身を乗り出して、その顔を見つめた。
 彼女の白い手が、十斗の頬に触れる。それはまるで、かつて前世九将の魂を宿した彼女がそうして見せたような、優しく、慈しむような愛撫だった。
「・・・・・・しばらく見ぬうちに、いい男になったのう、十斗」
 邂逅を一気に茶化すようなここのの言葉に、十斗は目を丸くする。
「・・・・・・馬鹿ここの」
「なに、馬鹿じゃと?」
 聞き捨てならない、とばかりの声を出す、ここのに微笑みかける。見つめ合ってそのまま、さもそうするのが自然であるかのように、十斗は頬に触れた手に己のそれを重ねた。そしてもう一方の手をベッドの上につき、横になったここのの身体を覆うようにそっと抱き締めた。
 触れることすらできなかった彼女に触れて、ぬくもりを感じて、愛おしいその名前を呼ぶ。ここの、と。幾度も幾度も。呼べば応えてくれる喜びに、十斗はうちふるえた。
「・・・・・・おかえり、ここの」
「・・・・・・ただいま戻ったのじゃ、十斗」
 照れくさそうに答えたここのの手が、ゆっくりと十斗の背中に回された。
 そうして抱き締め合って、どれだけ時間が経ったのか。先に口を開いたのはここのだった。
「あー、その、いつまで、こうしておるつもりじゃ?十斗よ」
 少し恥ずかしげな様子を見せるここのに対し、十斗は変わった素振りも見せず、ますます抱き締める手に力を込めた。
「どれだけ待ったと思ってんだよ・・・・・・もう少し、このまま」
 身体をくっつけたままで喋る十斗の声が身体に響き、ここのはどこかくすぐったいような気持ちになって身をすくめた。
 身じろいだここのに気づいて、しかしその身体を離しはしまいとばかりに、抱いた両腕はそのままで、十斗は身体をずらしてここのを横向きで抱き締める体勢に変えた。
 十斗の胸や腕に触れる柔らかな身体の感触や、すぐそばで香る少女特有の甘やかな匂いは今まで知りたくとも知り得なかったもので。
 ここのがかすかに吐息を零すたびに、身体は規則正しく呼吸を刻んで、ここにある確かな存在が愛おしくて堪らなくなる。十斗の腕の中に大人しく抱かれている彼女の顔を、間近で見つめたくなって、そっと顔を覗き込んだ。
 一瞬、はっと驚いたように双眸を大きく見開いたここのが、ややして視線を下ろしたかと思うと、再び十斗の方を見つめ返した。
「わしが眠りについてから、何年が経っているのじゃ?」
「二十年」
「二十年じゃと?」
 鸚鵡返しにここのはそう口にする。十六歳だったはずの彼はどう見ても二十歳そこそこといった風貌で。三十六歳という年齢はぴんと来なかった。
「お主、いくつになったのじゃ」
 十斗の目が細められたかと思うと、口元に力が入って不自然な笑みの形を作った。
 口ごもった十斗を見て、ここのは彼の身に何かが起きたことを知る。
「ここのが刻氷に閉ざされてからしばらくして、気づいた。爪も伸びねぇ。髪も伸びねぇ。切った途端にちょうど切る前と同じくらいに伸びるんだ。まるで時が早回しされるみたいに。そして四年前、俺の時間は唐突に動き始めた」
 おそらく刻氷に何らかの変化が起きたんだろうな、と呟いた十斗の表情は、どこか遠くを見つめるようにここのには見えた。
 肉体的な時間が止まっていたのだと告げられて、ここのは驚きを隠すことができなかった。
「わしだけでなく、お主にも、影響が出ていたというのか・・・・・・」
 刻氷の中で時を停めたここのと違い、日々を過ごしながらにして時に置いて行かれるなど。過ぎ去っていく時間の中で、彼だけが姿も変わらずそこにとどまっている光景が浮かんで、ここのは心が痛んだ。
「どうして・・・・・・」
「なに、お前を護るためだったんだろう。構わねえ」
「しかしもしわしが、何百年もずっと目覚めなければ、お主は、」
「ひとり生き長らえて、いつか、お前に逢える」
 ここのの言葉を継ぐように、間髪なく答えた十斗の表情は、ここのの心を揺さぶった。
 精悍な顔つき。そこにはここのの知らぬ年月がそうさせたのだろうか、優しげな微笑みが浮かんでいた。
 それは奇しくも、ここののものではない記憶の中の、前世十将の面影と被って。
「おぬしは、よい男になったのう」
 先ほどの軽口とは違い、優しい声音で言われて、十斗は嬉しいような照れくさいような、複雑な気持ちになる。
「俺は前からいい男だろう?」
 そう言って唇をわずかに尖らせて見せる十斗の様子が、年相応のものではなく、ここのの記憶の中にある彼の表情に重なって見えて、ここのは思わず微笑む。
「昼前にたまきさんが着替えを持ってきてくれる。もうすこし寝てろ」
 そう言いながら、ここのの頭を撫でる優しげな仕草を見せる十斗に、ここのは胸の鼓動がどきりと跳ね上がったのを感じる。そしてようやく、今の自分たちの状況に思い至る。
 十斗の部屋のベッドに寝かされて、その彼の腕の中にいる自分。抱き締めあっているなどまるで自分の身に起きていることとは思えないほど、一気に羞恥心が襲ってきて。
「じゅ、十斗よ、」
「ん?」
 慌てて身体を離そうとしたここのだったが、身体に響いてくる彼の声が、とても穏やかで。そのぬくもりに包まれているのが、とても幸せなことのように感じられた。近すぎるはずのこの距離が妙に心地よく感じられて、むしろ離れがたいと思ってしまう。そういう風に思う自分の意識が不思議で、ここのは自身の感情に戸惑った。
 ここのの髪をゆっくりと梳くように撫でる、十斗の手の動きを意識した。こういうことができる男だったのか、とどこか感心したような気持ちになる。
「うむ、何でもないのじゃ」
 優しげな表情で自分を見つめる十斗の視線を感じながらも、この上なく穏やかな気持ちでここのは目蓋を閉じた。

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(2011/05/17 公開)