after story


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 風呂から上がり、さっぱりとした表情を浮かべたここのが、居間に入ってくる。
 たまきが持ってきた白のカットソーにえんじ色のジーンズを身につけた姿は、色合いこそ巫女装束と似ているものの、また違った懐かしさを感じさせて、十斗は思わず顔が綻ぶのを自覚した。
「ゆっくりできたか?」
 ソファーに座っていた十斗は、手持ち無沙汰に読んでいた雑誌を閉じた。
「うむ、ようやく生き返った心地じゃ」
 さっぱりしたのじゃ、と機嫌よく笑うここのを手招きで呼べば、不思議そうな表情をして小首を傾げながらやってくる。ここに座るようにと手振りで示すと、ここのは大人しく腰を下ろした。
「なんじゃ?」
 十斗の座るソファーの前のフロアに座らせる形になったここのの、タオルに包まれた髪に触れる。そしてそのまま軽くタオルで押さえるようにして水気を取ってやる。
「な!」
「やりたいんだ。いやか?」
 その間も、軽やかな音を立てながらタオルを動かすことをやめない。
 やがて、観念したのか、ここのの頭が左右に小さく揺れて。そんなささやかな仕草にさえ、十斗は口元に浮かぶ笑みを抑えられそうになかった。
 くすぐったそうにたまに肩をすくめるここのを、こうして構うのは何故か十斗を穏やかな気持ちにさせた。目の前にいるここのと、言葉を交わしたい。話せなくても、触っていたい。触れられなくても、そばにいたい。それが十斗の純粋な気持ちだった。
 一方のここのは、突然の十斗の行動に驚いていた。
 触れられることが自然なようでいて、けれども心の奥がざわめくような衝き上げる感情。髪に神経など通っているわけもないのに、彼の手が触れるそこから、ここのの心臓に伝える何か。
 今までもふとした拍子に、ここのの心に到来するそれが何なのか、わからないここのではなかったけれど、それは意識してはいけないことだとわかっていた。
 ここのは巫女なのだから。
 それを意識した途端、どきどきと早鐘を打ち始めた胸の鼓動に気づいて、ここのは自らを落ち着かせるように口を開く。
「よもや十斗に世話してもらう日が来ようとは、夢にも思わなかったのう」
「世話って、ただ髪乾かしてやってるだけだろう」
 そう言う十斗の声音はなにやら楽しそうだ。
 とんとん、とリズムよくタオルを動かされ、その振動が身体に伝わる。自分の身体なのに他人に動かされる感覚が不思議だった。やがて緩やかな動きで髪を撫でられるようになり、ここのの気持ちも落ち着いて、自然と口から言葉がついて出た。
「・・・めまぐるしい日じゃった」
 覚醒から今まで、大きく変わった状況を把握するのがいっぱいで、ここの自身、気づかぬうちに緊張していたらしい。慌ただしく過ぎた時間から一転して、この穏やかさに気が緩む。
「頭ではわかっておるつもりなんじゃが、やはりあぁして壬吾や双葉の姿を目にするとの、はっとさせられる」
 幸せそうに笑う双葉の顔が脳裏に浮かぶ。娘もいるのだとはにかんだ様子で笑ってみせた彼女が、前世の因縁を越えて、女性としての幸せを手にしたことにここのは心から安堵した。けれどもそれと同時に覚えるのは、ついこの間まで少女の姿をしていたはずの友人が、遠く手の届かないところへ離れてしまったような、寂寥感。
「わしの知らぬ時間があるのじゃな」
 淋しげに呟いたここのの言葉に、十斗は不意を突かれて、手を止めた。
 二十年振りに目覚めたここのは何一つ不満を言わなかった。けれど本心では、口に出せぬ感情があるのだと思っていた。
 日中に見た、明るく振る舞い場を和ませるここのの気丈な姿に、十斗はなんとなく歯痒いような、もどかしいような思いを感じていた。
「じゃがそれ以上に、皆幸せそうに暮らしているのがなによりに思う」
 十斗の位置からはここのの顔は見えないが、笑っているだろうことが容易に想像できた。それは昼間見せた、あの朗らかな表情と同じだろう。そんな顔を自分の前でもさせているのかと思うと、胸が締めつけられるように苦しくなった。
「現世魔王との闘いがあったなど、夢のようじゃ」
「夢じゃない」
「そうじゃな。お主にも夢ではあるまい。まさかお主の時間までが止まったなど、さぞかし辛かったじゃろうに」
 そうして自分の身に起きたことよりも、他人の痛みに寄り添おうとするここのに、十斗はますます歯痒い気持ちになる。
「おまえはいつもそうだ。どうして自分を省みない?」
「性分じゃな」
 即答したここのの声は、変わらず明るい。
「わしは、そういう風に生かされて来たのじゃから」
「それは違う、ここの」
 そう言いながら、十斗はここのの肩を引き寄せると、後ろからその身体を強く抱いた。
 その途端に強く香る、彼女の髪の匂いに男の欲がそそられないと言えば嘘になる。
「そんなふうに言うなよ」
「実際そうじゃ」
 ここのの声色は変わらない。
「わしはそういうお役目じゃったのじゃ。じゃが、こうして生き長らえて、どうすればよい」
 正面を向いたままのここのの表情は垣間見えない。けれど、言葉の端々に浮かぶ動揺が、十斗の感情を揺さぶる。
「ここの、」
「今さら自分のために生きろと?」
 うっすらと浮かぶ自嘲の色に、十斗はまるで自分の胸を掴まれたような苦しさを感じる。ここのの生存理由が、「幽将で在ること」にあるとわかってしまって。それは、彼女が幽殿で生きる上で植え付けられてしまった価値観であり、現世魔王を倒したことで、それを失った彼女がどれだけ動揺しているのかを、ようやく理解した。
「お前は、『九将』である以前に『貴布ここの』だろ」
 両腕に力を込める。昨晩初めて知ったばかりの柔らかい身体の感触に、眩暈がする。
「俺は、お前を、」
 好きだと言えばいいのか。そうして俺のために生きろとでも?
 自問自答して、言葉を探る。
 腕の中にある柔らかな身体の感触をもっと探りたい。けれど、躊躇われて、ただぎゅっと抱き締めた。
「わしは巫女じゃ」
 淋しげな色を含んだここのの声。
「分かってる」
 ここのの立場を思うと、どこまで踏み込んでいいのか、十斗はわからなかった。
 本当は触れ合って、彼女の身体を確かめることは許されないことなのかも知れない。
 しかし、彼女に向かう気持ちは止められはしない。触れることのできない氷の中でさえ、彼女に向かう気持ちは止められなかった。それなのにどうして、今こうして十斗の目の前にいる彼女に向かう気持ちを抑えることができよう。
「・・・・・・わしは純潔であることを誓いに四聖獣と契約しておる。それゆえ、男の気精を受け入れるわけにはいかぬ」
 笑いながら、けれども哀しそうに聞こえた声に、十斗はただ抱き締める腕に力を込めた。幽将としてではなく、ここの自身が求められていることに気づくように。
「分かってる。だから、俺の前では、無理して、笑うな」
「無理など・・・・・・!」
 そう反論しかけて、ここのは口をつむぐ。何を言ったとしても、ここのの気持ちは十斗に全て見透かされているような気がして。けれど不思議なことに、それはここのにとって嫌なことではなく、むしろどこかここのの心に響くようで。
 何もしない、と言う十斗の声がすぐ耳元で聞こえた。
「ただ、おまえに、触っていたいだけだ」
 その言葉が言い終わるか否や、温かく濡れた感触が耳に触れて、ここのはびくりと身体を震わせた。
 ここのを抱き締めたままの十斗が、耳元にかかった髪に唇を寄せたらしい。そんな親密な行為に、ここのはどうしていいかわからなくなる。こうした仕草や言葉のひとつひとつが、ここのの心臓を破裂しそうに高鳴らせる。
 麒麟を召還し、現世魔王を倒してからすぐ、ここのは眠りについた。十斗への想いは心に秘めていたものの、こうして求められることに慣れていなかった。
 そもそも、ここのは巫女である。幽殿で生きて、死ぬはずだったここのに、男に愛される機会などあってはならないはずだった。
「十斗、」
 ぎゅっと抱き締められた腕の中、それがまるでここの自身を求められているような気さえして。
 この気持ちをどうしていいのかわからず、持て余したまま、ここのは抱かれた十斗の腕に触れた。この手を取ることは許されるのか、答えの見えぬ問いを巡らせながら。

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(2012/10/07 公開)