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 翌朝、十斗とここのは出雲行きの飛行機に乗って東京を発った。
 出雲に行く、それはここのにとっては二十年振りの帰郷でもあった。物心ついたときから幽殿で育ち、東京に来るまで幽殿の外へ出たこともない彼女にとって、家と呼ぶべき場所であるが、そういう意味でここのが帰りたいと言ったわけではないのを十斗は理解していた。今、そこに行かねばならぬ理由があるのだと、彼女さえ知らぬ何かに突き動かされているのだろう、と。
 空港を出て、幽殿に向かうタクシーの車窓から見える風景を、言葉もなくじっと見つめるここのに十斗も黙って目をやる。
「変わらぬのう、ここは」
 ひとりごちるようにそっと紡がれたその言葉を、十斗は聞き逃さなかった。現世魔王との闘いの前に一度来たきりの十斗にはわからないが、数年でその景観をがらりと変えた東京に比べれば、ここは二十年の時を経てもそう大きく変わっていないのかも知れなかった。
 四百年もの永き時において、統率者として在り続けた御前さまを欠いた幽殿は、表向きの宗教法人としての立場は一切変わることはなく、しかしこの二十年で、かつてとは違う形を模索していた。幽殿内で月の殿と日の殿というそれぞれの派閥が存在したかつての体制は、今や絶対的な長を立てぬ合議制へと変わり、また学問研究と鍛錬の場として、過去と将来を見つめていく組織へと変貌を遂げていた。
 十斗はそのことを父・源斗や鏡視郎から耳にしていたものの、いざこうして実際に幽殿で見かける僧達の表情を見ると、明るく闊達としているように感じられた。ただ面白いことに、通された幽殿自体は前に訪れた頃とまったく変わっていないように思えた。想像したとおり、二十年もの時さえここでは些細な変化しか与えないのだと思うと、どこかほっとした。
 ふと隣を見やれば、どこかこわばった表情のここのの姿があって。思わず腕に触れると、びくり、と驚いたようにおののき、一瞬の間ののち、唇がぎこちなく笑みの形を作った。
 その笑顔が無理して作られたものだと、すぐに判って。十斗は心配になって、触れていた手のひらにわずかに力を込めた。
「ここの・・・・・・」
 ここのの赤く艶やかな唇が、すこし撓んで、噛みしめられる。ややしてその唇が緩んで、ゆっくりとひとつ深呼吸したあと、言葉を紡いだ。
「大丈夫じゃ」
 ここのはそう自分に言い聞かせるように、言葉を放ち、十斗に向かって大きく頷き返す。そうしてようやく、十斗が隣にいることを意識して、独りではないことに安堵した。
「・・・・・・すこし、臆した」
 正直な気持ちをここのは吐露した。
 足を踏み入れた幽殿は、自分の知っている場所なのに、知らないもののようで。ここにはもうここのの居場所はないのだと、感覚的にわかってしまった。上京するまでの十数年間を過ごしたここは、ここのにとって全てで。だがもはや、九将としてのここのを欲していない。
「これはなかなか、堪えるの」
 時間の変化をまざまざと感じ、それに対し自分が少なからずショックを受けていることを、ここのは甘んじて受け止めた。
 ふと、右手に温かい感触が触れて、十斗に手を取られたことに気づく。
 無意識に顔を上げると、意外にも真剣な眼差しをした十斗の視線とかち合って。そうしてようやく自分が十斗を困らせていることに気づいて、あわてて言葉を探す。けれどなかなかすぐに気の利いた言葉が浮かばない。そうこうしているうちに、先に口を開いたのは十斗の方だった。
「俺がいる」
 繋いだ手から伝わる温かな感触に、ここのは声が詰まるような感情を感じて、でもそれが何なのかはっきりしない。言葉にならないこの気持ちが伝わればいいのに、と願いながら、その手をきゅっと握り返した。
 年若い修行僧に案内されたのは、主のいなくなった謁見の間。かつてここで御前さまとの会議があったことが今では懐かしささえ感じられる。
 そこには何十人もの僧形をした人々が座して、十斗とここのを待ち構えていた。その中にようやく見知った顔をいくつか見つけてここのはほっとする。
「九将殿、このたびのお役目、ご苦労でございました」
 その言葉を皮切りに、あちこちから声がかかる。
「ご帰還を、心よりお喜び申し上げます」
「九将殿、幽殿によくぞお戻りに!」
「長きのお役目、お疲れ様でございました」
「九将殿!」
 次々にかけられる労いの言葉に、ここのも驚く。この二十年の間にずいぶん様変わりした幽殿の面々からかけられるその言葉を受けて、九将としての言葉を返す。
「お役目、果たしたまでじゃ。皆も御前さまがお還りになったあとも、よくやってくれた。御前さまも仙界で安心しておられることじゃろう」
 その言葉に、ここのよりいくつもの年上の男たちが一斉に頭を垂れる。それは一見すると不釣り合いな光景であったが、何百年にも渡り現世魔王との闘いに終止符を打った幽将への畏敬が現れたものと言えた。
 二十年前の闘いの終結後、鏡視郎をはじめ何人かの幽将が幽殿を訪問していたが、十斗はそれに同行しなかった。その十斗にもここのと同様、讃辞の声がかけられた。話には聞いていたが、こうして自分の目でみることで初めて幽殿という組織が、打倒現世魔王の呪縛から解き放たれたのだと実感した。
「幽殿も、変わったのか」
 謁見の間から退出する僧達を見ながら、そう十斗が呟くと、まだ近くに残っていたらしい年配の僧が口を開いた。
「貴方がたが、変えてくださったのですよ、十将殿」
 そう言って頭を下げた老僧の晴れ晴れとした表情に、十斗はようやく心から現世魔王との闘いが終わったことで、迎えられた新たな一歩を実感したのだった。

 本殿を出て、宿泊のために与えられた宿泊所の一室に案内された十斗は、手持ち無沙汰にごろりと畳に寝っ転がった。両手を頭の後ろに組んで目を閉じる。
 目を閉じたまま、ここのが幽殿に来たいと言った理由を思考する。「行ってみればわかる」と言った彼女だったが、謁見の間で迎えられた時に特定の人間と話をする訳でもなかった。彼女さえ知らぬなにかに突き動かされているにしても、御前さまもいないこの幽殿で、何をしようというのか。
 確かに、幽殿に来たことで十斗自身も得るものはあった。闘いの終結以来、つい先日まで刻氷に閉ざされたここのを護ることを生存理由としていた十斗にとって、自分の目で幽殿の変化を見たのは大きい。今まで動かなかった自分の人生が、ここのの目覚めと共に再び時を刻みだしたのを心から実感した。ただそれは同時に、嬉しさと喜びとともに得体の知れない不安感をも産み出したのだった。
 そんな自分でも判別のつかないもどかしい感情に、息を吐いたそのときだった。
「さすがに疲れたか?」
 静かに襖の開く音と重なるように、鈴の音が転がるような声がして、十斗は目を開ける。
 そこにあったのは、真っ白い上衣に緋色の袴、巫女装束を身につけたここのの姿だった。刻氷に閉ざされていた間中、目に焼き付くほど見つめ続けたその格好ではあったが、それはよく少女に馴染んでいた。
 十斗の視線が巫女装束にあることに気づいたのか、ここのは袖口の中に手を入れて、ツン、と引っ張るようにして両手を広げてみせる。
「やはり、の。ここではこの格好がわしなのじゃ」
 そうおどけたように言うここのだが、ただそれだけのためにわざわざ巫女装束に着替えたわけではないだろう。十斗はゆっくりと身体を起こすと、体勢のせいで見上げる形になったここのの顔を見つめる。
「理由があるんだろう」
 そう指摘すると、ここのは一瞬驚いたような表情をして。
「お主には適わんのう」
 にこにこと笑いながら腰を屈めたかと思うと、そのまま十斗の耳元に顔を寄せた。
 ふいに行われた一連の動きに内心どきりとしつつ、囁く声が耳に届く。
「御前さまに、お目通りしようと思ってな」

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(2013/04/20 公開)